本記事は北条時政の子供たち【男子編】の続きとなっています。時政の妻と4人の男子については、こちらをご覧ください。
北条時政には、最低11人の女子がいたことが確認できます。
生没年が分かっていない人物が多いのですが、野津本『北条系図』には彼女たちの出生順が記されています。
野津本『北条系図』には、弘安九年(1286)、弘安十年(1287)、嘉元二年(1304)の奥書があり、弘安九年に異本校合した系図を嘉元二年に書写したものと考えられます。幕府滅亡前、時政の子孫たちが生きていた時代に作られたため、信頼性は高そうです。とはいえ時政の子供たちが生まれてから100年ほど経っているため、そのまま信用するわけにはいきませんが、時政の娘9人の出生順を記すのは野津本『北条系図』だけであり、貴重な史料と言えます。
今回は野津本『北条系図』の出生順にしたがって、時政の娘たちについて紹介します。
保元二年(1157)〜嘉禄元年(1225)七月十一日
北条時政の長女。
伊豆に配流されていた源頼朝と恋に落ち、頼朝死後の鎌倉幕府を所謂「尼将軍」として支えたことで有名。
政子の母は不明とされていますが、真名本『曽我物語』巻五には次の一節があります。
また北条殿の昔の姫、鎌倉殿の御台盤所の御母、時政の先の女房と申すも、これらがためには父方の伯母なり。さてこそ、北条殿も昔の縁を忘れ給はずして、元服の子となしつつ、かやうに引き立てけり。
鎌倉殿の御台盤所(政子)の母で時政の先妻は、これら(曽我兄弟)にとっては父方の伯母で、北条殿(時政)もその縁を忘れずに、曽我五郎時致を烏帽子子として引き立てた、という内容です。
政子の母は曽我兄弟の「父方の伯母」、つまり伊東祐親の娘だということになります(前回の系図を参照)。
物語であるためそのまま信用することはできませんが、義時と政子は6歳差で、時政と時致の烏帽子親子の関係も事実ですから*1、政子の母が伊東祐親の娘である可能性は高いと思われます。
また、坂井孝一先生は伊東祐親の生年を保安二年(1121)〜五年(1124)と推定され、時政の妻となる娘が保延六年(1140)〜七年(1141)頃に生まれたとすれば、彼女を政子・義時らの母とする仮説が成り立つと論じられています*2。
政子は頼朝との間に、治承二年(1178)頃に大姫、寿永元年(1182)に頼家、文治二年(1186)に三幡、建久三年(1192)に実朝を生みました。
正治元年(1199)年正月に頼朝の死去により出家し、法名を如実または妙観と号します。
ちなみに「政子」という名は、建保六年(1218)に従三位に叙せられたとき、朝廷が文書に記録するために、父時政の一字をとって便宜的に付けた名前です。彼女が自分が「政子」として記録に残されたことを知っていたのかも分かりません。政子はとっくに出家していますから、彼女が「北条政子」と名乗ったことも人から呼ばれたこともなかったはずです。
女性の本名は公の場には出さないため記録に残りにくいのですが、例えば政子の次女は「三幡」という名であったことが分かっています。
政子の本名は、真名本『曽我物語』では「万寿」、仮名本『曽我物語』では「朝日」と記されています。政子の名が本当に万寿あるいは朝日だったのかは不明ですが、実際に政子は時政や頼朝からこのような名で呼ばれていたのではないかと考えられます。
足利義兼妻(次女)
生没年未詳
野津本『北条系図』では時政の次女。
『吾妻鏡』によると、養和元年(1181)二月一日、足利義兼は頼朝の仰せにより時政の娘を娶りました。このとき、加々美長清も上総広常の娘と結婚しており、二人とも穏便で忠義があるため、頼朝が特に気に入ってこのように取り計らったといいます。
『吾妻鏡』文治三年(1187)十二月十六日条では、義兼の妻が病気になり「頗る危急」のため、政子が「御姉妹たるの故」で義兼の宿所に渡っています。夜になって病状は軽くなったようです。これ以降、義兼の妻は『吾妻鏡』には登場せず、彼女の生没年は不明です。
『続群書類従』所収の「桓武平氏系図」・「北条系図」によると、文治五年(1189)に生まれた三男義氏の母。義兼の長男義純・次男義助は庶子だったようで*3、義氏が嫡子として足利氏を継ぎました。
足利義兼の妻の菩提のために建立されたという法玄寺(栃木県足利市)には、↓のような「蛭子伝説」が伝わるそうです。
http://hogenji.jp/room/index.html
鎌倉時代を通して北条氏と足利氏が婚姻を重ね、密接な関係を続けていたことを考えると、少なくとも義兼が密通を疑ったために妻が自害したというのは虚構だと思います。鎌倉時代の五輪塔が発見されたとはいえ、仮にそれが義兼の妻のものだとしても「伝承が事実である」とまでは言えないのでは……(;´Д`)
しかし、実際には良好な関係だったと考えられるからこそ、このような伝承ができたのは不思議です。
また、この伝承では義兼の妻は「時子」という名ですが、彼女は叙爵していないので、「親の名の一字」+「子」型の名が付けられた可能性はほぼないと思われます。時代が下ってから作られた伝承でしょうか?
阿波局(阿野全成妻)(三女)
?〜安貞元年(1227)十一月四日
野津本『北条系図』・『続群書類従』「北条系図」では時政の三女。
夫の阿野全成は、頼朝の異母弟で義経の同母兄。全成との間に、時元と藤原公佐妻を生んでいたことが分かっています*4。
『吾妻鏡』初見は建久三年(1192)八月九日条。この日、政子に男子(千幡。後の実朝)が生まれ、阿波局が乳付として参上しました。また、同年十一月五日には、千幡が御行始で安達盛長の甘縄邸に入る際、女房の大弐局とともに介添えをしています。
彼女が次に『吾妻鏡』に姿を見せるのは、頼朝の死後である正治元年(1199)十月二十七日条です。
景時の讒訴に依て、汝已に誅戮を蒙らんと擬す。其の故は、忠臣二君に事せずの由述懐せしめ、当時を謗り申す。是何ぞ讎敵に非ざるか。 傍輩を懲粛の為、早く断罪せらるべし。
阿波局は結城朝光に、梶原景時の讒訴によって貴方は誅殺されようとしている、と告げます。朝光は朋友の三浦義村に相談し、さらに和田義盛、安達盛長の提案で御家人66人による景時弾劾の連判状が作成され、景時は鎌倉を追放されることになります。
景時失脚の経緯は『吾妻鏡』と『玉葉』や『愚管抄』では異なり、『吾妻鏡』の記事がどこまで事実を伝えているのかは不明です。しかし、事の発端が阿波局であることは、梶原景時の変の黒幕を北条時政とする説の根拠の一つとなっています。
阿波局は、その後の北条氏と比企氏の対立にも関与しています。『吾妻鏡』によると、建仁三年(1203)五月十九日、阿波局の夫である阿野全成が、謀叛の疑いで御所に召し籠められました。翌二十日、頼家は母である政子に対し、阿波局を尋問するから身柄を引き渡すように要求します。政子は、「そのような謀叛の計画を女性に知らせるはずがありません。それに全成は去る二月頃に駿河国へ下向してから、阿波局と連絡をとっていないのです。疑うところは全くありません」と言って、妹を差し出すことを拒否しました。
その後、全成は五月二十五日に常陸国に配流され、六月二十三日に誅殺されます。それから間もなく頼家が病に倒れ、九月二日、時政のクーデターにより比企氏が滅亡。回復した頼家も七日に出家させられます。
九月十日、12歳になっていた千幡を将軍に擁立することが決まり、千幡は政子のもとから時政の邸宅に移りました。乳母である阿波局も同じ輿で同行したといいます。
ところが十五日、阿波局は政子のもとを訪れて言いました。
若君遠州の御亭に御座すは、然るべしと雖も、倩牧御方の躰を見るに、事に咲みの中に於て害心を挿むの間、傅母と恃み難し。定めて勝事出来せむか。
此の事兼ねて思慮の内の事なり。早く迎え取り奉るべし。
よくよく牧の方の様子を見ると、笑顔の中に害心を含んでいて、守役として信頼できません。きっと何か事件が起きるでしょう。これを聞いた政子はすぐに北条義時・三浦義村・結城朝光を派遣し、千幡を保護しました。狼狽した時政が陳謝すると、政子は成人するまで母のもとで養育すると返事をしました。
このとき阿波局が抱いた不安は現実となります。元久二年(1205)閏七月十九日、牧の方が平賀朝雅を将軍にして実朝を滅ぼそうと企てているとの風聞があり、政子は実朝を義時の邸宅に移します。時政は出家に追い込まれ、翌日伊豆に下向しました。
『吾妻鏡』はこの風聞の出処を記していませんが、これまでの展開を考えると阿波局なのでは、とも思えてきます。しかし、『吾妻鏡』は牧の方を時政を唆す悪女として描く傾向があるので、建仁三年九月十五日条、元久二年閏七月十九日条の内容には気を付ける必要がありそうです。
承久元年(1219)一月二十七日、阿波局にとっては甥で養君である実朝が暗殺されます。
さらに二月十五日、全成と阿波局の子である阿野時元が、宣旨を賜って東国を支配しようと駿河国で挙兵しました。十九日、政子の命により義時は金窪行親以下の御家人を討手として駿河国へ差し向けます。二十二日、反乱軍は敗北し、時元は自害しました(『吾妻鏡』)。
この『吾妻鏡』の記事から時元の母が阿波局であることが分かるのですが、事件の際の阿波局の動きは不明です。この事件については詳細が分からず、時元が本当に謀叛を企てていたのかも確かではありません。ともあれ、政子・義時の命によって時元は討たれます。
幕府の抗争の中で夫、養君、実の子を失った彼女の心情は一切語られません。
阿波局は安貞元年(1227)十一月四日に亡くなります。執権の泰時は30日の軽服のため、尾藤景綱の邸宅に移りました(『吾妻鏡』)。
政子の死から2年後のことでした。
稲毛重成妻(四女)
?〜建久六年(1195)七月四日
野津本『北条系図』では時政の四女。
彼女の夫である稲毛重成は愛妻家だったらしく、『吾妻鏡』には次のようなエピソードが残されています。
建久六年(1195)、重成は頼朝の上洛に供奉しますが、その帰途の六月二十八日、美濃国青墓宿で、武蔵国にいる妻が危篤であるとの連絡を受けます。急いで帰国しようとする重成に、頼朝は黒毛の駿馬を与えました。七月一日、重成は武蔵国に到着します。頼朝から賜った馬は龍のように速かったため、「三日黒」と名付けたそうです。
重成の妻はこのところ病気で、度々治療を受けていましたが、七月四日に他界します。重成は「別離の愁い」に耐えられず、「勇敢の心」に嫌気がさし、ただちに出家しました。
重成の妻が時政の四女だとすると、この時まだ20代くらいだったと思われます。重成もまだ武士として若かったはずですが、すぐに出家してしまったのは、それほど妻を愛していたからでしょう。それでも、重成が最後に妻と会うことができたのがせめてもの救いだったのではと思います。
彼女の死を受け、七月九日、政子が軽服のために比企能員の邸宅に入っています。八月九日には、行慈法眼を導師として、重成の妻のための仏事が行われました。時政・義時父子も、軽服のために七月十日から八月十三日までの間、伊豆国に下向しています。
建久九年(1198)、重成は妻の供養のために相模川に橋を造立しました。
『吾妻鏡』建暦二年(1212)二月二十八日条によれば、頼朝はこの橋の落成供養の帰りに落馬し、間もなく亡くなったといいます。
畠山の乱では全ての責任を押し付けられてしまうし、重成さん不憫。
重成の子供のうち、母が時政の娘だと分かっているのは女子一人(綾小路師季妻)だけです。
『吾妻鏡』によると、元久二年(1205)十一月三日、綾小路師季の2歳の娘が、乳母夫の小沢信重に連れられて京都から鎌倉に下向しました。この娘の母は稲毛重成の娘で、事件の余波を受けることを恐れて信重が匿っていましたが、これを憐れんだ政子が鎌倉に呼び寄せたといいます。
翌四日の夜、この「綾小路の姫君」は政子の邸宅に招かれました。政子は姫君を自らの猶子とし、重成の遺領である武蔵国小沢郷を与えました。
建保六年(1218)二月四日、政子は熊野詣のために上洛しますが、16歳になっていた綾小路師季の娘を、土御門通行に嫁がせるために同道させました。後に彼女は通行との間に通時を生みます。
政子が亡くなった妹の孫のことを長く気にかけていたことが分かるエピソードです。
平賀朝雅/藤原国通妻(五女)
生没年未詳
野津本『北条系図』では時政の五女。
『愚管抄』によると牧の方の長女。
夫の平賀朝雅は、源氏門葉として頼朝に重用された平賀義信を父、頼朝の乳母比企尼の三女を母とする有力者で、武蔵守にも任じられていました。しかし、時政と牧の方が実朝を廃して朝雅を将軍にしようとする陰謀を企てたとして、朝雅は元久二年(1205)閏七月二十六日に誅殺されてしまいます。
その後、妻は京の貴族である藤原国通に再嫁しました。この藤原国通は幕府と関係深い人物だったらしく、実朝の右大臣拝賀に参列したり*5、泰時の推挙で権中納言に任じられたり*6、その後も関東に下向したりしています*7。また、寛元二年(1244)には北条義時の孫娘である「富士姫君」を猶子として京都に迎えています*8。
『明月記』嘉禄元年(1225)二月二十九日条には、
坊城相公(国通)病脳危急の由、坂本に於いて雑人の説を聞く。仍て房任を以て承り驚く由を示し送る。本の持病更に発り、昨今又小減の由返事有り。去ぬる冬より未だ出仕せずと云々。大略損亡の人か。妻室去年より伊豆に在りて未だ帰洛せず、人口は狂乱すと云々。
とあり、国通が病で危篤なのに、その妻は去年から伊豆にいて未だ帰洛していないといいます。
その後国通は回復し、妻も帰洛したようですが、嘉禄元年六月二十九日条には再び妻が下向したらしいことが記されています。
坊城相公の消息に云ふ、西郊持仏堂、八月の比、開眼せんと欲するの処、女房俄に遠行を企てんと欲するの間、明日形の如く之を遂げ、馳せ下らんと欲す。
この二度の下向の理由は不明ですが、五月二十九日に発病して危篤となった政子(『吾妻鏡』)の見舞いのため、伊豆にいる母牧の方を訪ねるため、前年に死去した異母兄義時の弔問のためなどが考えられるようです*9。
政子の死から19年後の寛元二年(1244)七月二十八日、国通の妻は夫の有栖川邸で政子の二十周忌法要として法華八講を修しています*10。寛元四年(1246)にも有栖川八講が催されたという記録があり*11、彼女は政子のために毎年周忌法要を催していたようです。鎌倉と京の異母姉妹に強い結び付きがあったことが窺えます。
生没年未詳
野津本『北条系図』では時政の六女。
畠山重忠の妻。
『吾妻鏡』は、重忠について「重忠は遠州(時政)の聟也」(元久二年(1205)六月二十一日条)、重忠の子重秀について「母右衛門尉遠元女」(同年六月二十二日条)と記しており、重忠の妻には北条時政の娘と足立遠元の娘がいたことが分かります。
重忠の嫡男・六郎重保の母は『佐野本系図』によると時政の娘で、これが通説となっていますが、『足立系図』の足立遠元の娘の注記に「畠山次郎平重忠妻也、六郎重保小次郎重末等母也」とあること、『桓武平氏諸流系図』の重保の注記に「母足立左衛門遠光(元)女」とあることから、重保の母は足立遠元の娘で、時政の娘が生んだのは十郎時重ではないかとする説もあります*12。
重忠の妻は、畠山の乱の後、足利義兼の子義純に再嫁し泰国を生みました。泰国は畠山の遺領を継ぎ、源姓畠山氏となります。
重忠の妻の母について、『保暦間記』は次のように記しています。
重忠ハ時政ノ聟也。又武蔵左衛門佐源朝雅朝臣モ〔平賀四郎義信子也〕時政ノ聟也ケリ。朝雅ハ牧ノ女房ノ一腹ノ聟也。重忠ハ二位殿〔尼御台所、頼朝後室〕義時以下ノ前ノ妻子ノ一腹ノ聟也。中悪クシテ不思議ノ讒言有ケルニヤ。又、牧ノ女房思立事モ有ケルニヤ。重忠ハ弓箭ヲ取テモ無双ノ仁也。当将軍ノ守護ノ人也。亡サント思テ、牧ノ女房重忠ガ従弟稲毛三郎入道重成法師ヲ語テ、二俣川ニテ被誅畢。
これによれば、重忠の妻の母は政子や義時と同じ時政の先妻、つまり伊東祐親の娘ということになります。
また、『鎌倉年代記裏書』も、
重忠者時政前妻之聟也、朝政(雅)者後妻之聟也、依当妻奸曲、重忠并一族被誅訖
と、重忠の妻の母が時政の先妻であるとしています。
時政に伊東祐親の娘と牧の方の他に妻がいたのかどうか、史料がないため証明はできませんが、伊東祐親の娘が亡くなったため牧の方が迎えられたと考えると、宗時・義時・時房・政子・義兼妻・阿波局・重成妻・重忠妻は同母兄弟ということになります*13。実際には畠山重忠妻が五女で、平賀朝雅妻が六女だったのかもしれません。
三条実宣妻(七女)
?〜建保四年(1216)
野津本『北条系図』では時政の七女。
母は牧の方。
三条実宣の妻。
実宣は閑院流三条家の庶流滋野井家の出身で、容姿に優れていたらしく、藤原定家は彼を「時の美男」と評しています*14。
実宣は中級貴族でしたが、婚姻関係などによって大納言にまで昇り詰めました。定家は実宣の経歴を『明月記』嘉禄二年(1226)六月三日条に記しています。
それによると、実宣は少年の頃に藤原基宗の娘宗子と結婚するが「狂女」であるという理由で離縁、次に平維盛の娘と結婚するがまた離縁。壮年になり正四位下中将の頃に北条時政の娘で藤原国通の妻の妹である女性と結婚。さらに家地を卿二品藤原兼子に与えたことによって上﨟四人を超えて蔵人頭となり、参議に任じられ、検非違使別当を経て中納言になり、豊後国を知行するほどになったといいます。
時政の娘との結婚は、実宣が権中将に任じられた建仁三年(1203)正月十三日〜『明月記』で政範について「実宣中将妻兄弟」と記されている元久元年(1204)四月十三日の間だと考えられるそうです*15。
時政の娘は建保四年(1216)に亡くなりますが、その次には藤原兼子の養女になっていた源有雅の娘を妻とします。しかし有雅が承久の乱に関わって処刑されると、またしても離縁しています。
この実宣、婚姻を出世の手段としてしか見ていなかったようで、子息にも「権門富有」との婚姻を強制し、権門と無縁の妻とは別れさせようとしていました。長男の公賢は愛する妻妾との離縁を拒み、実宣から経済的支援を止められたために出家してしまったそうな。実宣としては、息子の将来を考えて厳しい態度をとっていたようですが…*16。
そんな実宣が、時政の娘に利用価値を見出していたことは、当時の朝幕関係を考える上で興味深い話だと思います。
『吾妻鏡』建保四年(1216)三月三十日条によると、この日京都の飛脚が義時邸に到着し、実宣の妻が三月二十二日に死去したことを伝えました。兄の義時は軽服となり、人々が群参したそうです。
宇都宮頼綱/松殿師家妻(八女)
文治三年(1187)〜?
母は牧の方。
野津本『北条系図』では時政の八女。
『明月記』天福元年(1233)五月十八日条に四十七歳とあり、牧の方所生の女子の中では唯一生年が分かっています。政範の二歳上の姉にあたります。
この娘ははじめ御家人の宇都宮頼綱に嫁し、建仁三年(1203)に泰綱・藤原為家の妻(生年未詳)を生んでいます。
元久二年(1205)八月、頼綱は謀叛の疑いをかけられ、出家して異心のないことを示しました。その後、頼綱は京都に隠遁し、妻もこれに従ったようです。
嘉禄元年(1225)、頼綱の妻は政子を見舞うために鎌倉に下向しました。七月十九日には政子死去を伝える彼女の書状が定家のもとに届き、翌二十日には頼綱の妻の娘である為家の妻も仏事のために下向しています(『明月記』)。
嘉禄二年(1226)十一月十一日、頼綱の妻の母である牧の方が、時政の十三年忌に備えて上洛し、藤原国通の四条東洞院邸に滞在しました*17。国通は、牧の方の娘を妻とするだけでなく、定家の妻の異父弟という関係でもありました。
二十一日には頼綱の妻の居住する「吉田家」で牧の方・頼綱の妻・為家の妻が面会し、母子三代が集いました。牧の方は、十二月二十三日に為家の冷泉邸にも訪れています(『明月記』)。
嘉禄三年(1227)正月二十三日、国通の有栖川邸で、時政の十三年忌供養が催されました。
今日、遠江守時政朝臣後家〔牧尼〕、国通卿〔婿〕有巣河の家に於て、一堂を供養す〔十三年の忌日と云々〕。宰相の女房并びに母儀〔宇都宮入道頼綱妻〕、昨日彼の家に向う。亭主語る。公卿宰相殿上人を招請。公卿は直衣、殿上人は束帯。一の長者前大僧正導師と云々。関東又堂供養と云々。(『明月記』同日条)
供養には、国通や為家ら公卿6人、殿上人10人、諸大夫34人が出席しました。牧の方の人脈がかなり広かったことが窺えます。頼綱の妻と為家の妻も供養に出席したと思われます。
供養が終わって正月二十七日、牧の方は頼綱の妻と為家の妻を連れて天王寺や南都七大寺の参詣に出かけました。「西風猛烈、白雪散漫」という天気の中、3人は未明に出発しました。このとき、為家の妻は三男為教を身ごもって七箇月ほどでした。嫁の身体を心配する定家は、「善事と雖も穏やかならざることか。当世の風、骨肉も猶教戒に拘せざるがごとし。況や辺鄙の輩をや」と、心中穏やかでなく、骨肉(為家の妻)ですら忠告を聞いてくれず、辺鄙の輩(牧の方)はなおさらであると嘆いています(『明月記』)。
また、同年三月二十二日、牧の方は再び為家の冷泉邸を訪れています。為家が消息を送ったため、定家の妻がわざわざ冷泉邸まで出向いたそうです。後になってこのことを知った定家は、「只惘然たるの外他なし」と、自分の妻を勝手に呼びつけられたことに呆れてしまったようです(『明月記』)。
その後、理由は不明ですが頼綱の妻は離縁します。天福元年(1233)五月十八日、四十七歳の彼女は六十二歳の松殿師家と再婚したことを知らせる便りを頼綱や娘に送っています。
金吾(為家)の縁者〔妻母〕、天王寺に於て入道前摂政の妻と為るの由、態女子並びに本の夫の許に告げ送ると云々。自ら称すの条、言語道断の事か。〔禅門六十二、女四十七〕(『明月記』同日条)
彼女のその後は不明です。
彼女が頼綱との間に生んだ娘は、為家の妻として為氏・為定(源承)・為教・為子をもうけます。しかし為家が側室の阿仏尼との間に生まれた為相を溺愛したことなどから、御子左家の相続問題が起きるのですが、それはまた別のお話。
坊門忠清妻(九女)
生没年未詳
母は牧の方。
野津本『北条系図』では時政の九女。
八女である頼綱の妻が文治元年(1187)、政範が文治五年(1189)生まれのため、政範の妹であると考えられます。
夫の坊門忠清の姉妹は源実朝の正室です。実朝と忠清姉妹との婚姻は、時政と牧の方の人脈によって決められた可能性があり、そうだとすれば忠清と時政の娘の婚姻は、実朝の結婚が決まった元久元年(1204)十二月以前には成立していたことになります。
彼女の没年は未詳ですが、嘉禄三年(1227)の時政十三年忌供養に出席した形跡がないため、それ以前に死去したのだろうと指摘されています*18。
生没年未詳
母は不明。
伊予国の豪族である河野通信の妻。
通久・通政・通末・女子の母。
夫の通信は承久の乱で上皇方につきますが、通久の戦功によって死罪を免ぜられ、陸奥国に流罪となります。
『予章記』は、通信が上皇方についた経緯について、北条時政の娘である妻が「度々ノ名誉等ハ、只北条ノ縁タル故也」と言い、腹を立てた通信も「北条ハ平氏ノ末裔也。親好ハ縁也。聊モ名望ニ非ズ」と言って喧嘩になり、夜中に鎌倉を抜け出して上洛したとしますが真偽は不明。
大岡時親妻
生没年未詳
母は不明。
牧の方の兄弟である大岡時親の妻。
大岡時親は牧宗親の子で、牧の方の兄弟です。元久二年(1205)八月五日、牧氏の変の後、「時政が出家したため」として時親も出家しています。その妻子の詳細は不明。
十女
野津本『北条系図』に時政の「十女」とだけ書かれており詳細は不明です。河野通信妻か、大岡時親妻と同一人物?
【女子編】は以上です。
ここまで読んでくださりありがとうございました!【男子編】も読んでくださった方はもっとありがとうございます。
かなりの文字数になってしまいましたが、ここに書ききれなかったこともたくさんあるので、気になった方はぜひ調べてみてください。あと私の知識もごく一部なので、面白い話をご存知の方はぜひ教えてください。鎌倉時代の婚姻関係、めちゃくちゃ沼が深いです。
【主要参考文献】
五味文彦「縁にみる朝幕関係」(『明月記研究』5号、2000年)
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏-義時はいかに朝廷を乗り越えたか-』(NHK出版、2021年)
佐藤恒雄「為家室頼綱女とその周辺」(『藤原為家研究』笠間書院、2008年)
関幸彦『北条政子-母が嘆きは浅からぬことに候-』(ミネルヴァ書房、2004年)
高橋秀樹『日本史リブレット20 中世の家と性』(山川出版社、2004年)
田中稔「史料紹介 野津本『北条系図・大友系図』」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第5集、1985年)
並木真澄「中世武士社会に於ける婚姻関係-鎌倉北条氏の場合-」(『学習院史学』18、1981年)
日本史史料研究会監修・細川重男編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(吉川弘文館、2015年)
北条氏研究会編『鎌倉北条氏人名辞典』(勉誠出版、2019年)
星倭文子「鎌倉時代の婚姻と離婚」(『女と子どもの王朝史-後宮・儀礼・縁-』森話社、2007年)
安田元久編『吾妻鏡人名総覧-注釈と考証-』(吉川弘文館、1998年)
山本みなみ「北条時政とその娘たち-牧の方の再評価-」(『鎌倉』115、2013年)