蛇と龍と魚の鱗

鎌倉時代とか鎌倉北条氏とか

北条時政の子供たち【男子編】

 

鎌倉幕府の初代執権である北条時政には、政子・義時をはじめ男子4人、女子11人の存在が確認されています。

しかし、彼らの基本情報は一般にはあまり知られていないようで、Wikipediaなどを調べても特に女子の情報量は少なく、生母などについてはちょっと怪しい内容も見られました。
というわけで、北条時政の子供たちについて、生母・烏帽子親・結婚相手など、私が知る限りの情報をまとめてみました。

彼らの人生や歴史的事件については他のサイトや一般向けの書籍を読めば分かるので割愛し、それらの補足的なものになればと思います。

子供たち全員を一度に紹介しようと思ったのですが、書き始めたら文字数がかなり多くなってしまったので、男子と女子に分けることにしました。今回は男子編です。

【女子編】はこちら

 

 
北条時政とその妻 

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北条時政と伊東氏・牧氏の婚姻関係図

 

北条時政

保延四年(1138)〜建保三年(1215)一月六日
通称は北条四郎

伊豆国田方郡北条(現静岡県伊豆の国市)の武士。
桓武平氏直方流ではあるらしいですが、直方から時政に至るまで諸系図によって異同があり、確かなことは分かりません。時政の父の名は『吾妻鏡』には記述がなく、系図によって「時方」「時家」「時兼」など諸説あり、時政以前の北条氏は系譜が正確に伝わるような家ではなかったようです*1。母は伊豆掾・伴為房の娘*2

時政の出自や人生については今回は置いておいて、時政の妻子についてのみ紹介することにします。

 

伊東入道(祐親)の娘

生没年未詳

伊豆国伊東の豪族・伊東祐親の娘…と推定される人物。

率直に言って、史料がありません。
彼女と北条氏の関係を示す史料は、義時の母を「伊東入道女」とする前田家本『平氏系図』と、政子の母である時政の先妻は曽我兄弟の父方の伯母という記述のある真名本『曽我物語』のみです。
伊東祐親の娘が時政の妻で、子供を何人か生んだこと自体は事実と考えて良さそうですが、それ以外には全く情報がありません。『工藤二階堂系図』などの伊東氏の系図にも、彼女の存在は記されていません。
当然『吾妻鏡』にも登場せず、頼朝の挙兵時には亡くなっていたのではないかとも考えられますが、政子や義時が母親の供養をしたというような記述も無いんですよね*3

兄弟には祐泰(祐通)・祐清、姉妹には三浦義澄妻・工藤祐経/土肥遠平妻(万劫御前)・源頼朝先妻(八重)がいたことになります。

 

牧の方

?〜寛喜元年(1229)四月二十二日?

時政の後妻。
駿河国大岡牧(現静岡県沼津市)を知行していた下級貴族・牧宗親の娘(『愚管抄』)*4
時政との間に、政範・平賀朝雅/藤原国通妻・滋野井実宣妻・宇都宮頼綱/松殿師家妻・坊門忠清妻を生んだことが分かっています。

牧宗親は、『尊卑分脈』に見える藤原氏道隆流の「諸陵助宗親」と同一人物と考えられています。この諸陵助・藤原宗親は、藤原宗兼の子で、平忠盛の後妻・宗子(池禅尼)の兄弟にあたります。清盛の継母で、平治の乱の後に頼朝の助命を嘆願した逸話(『平治物語』)のある、あの池禅尼です。池禅尼は忠盛との間に家盛・頼盛を生んでおり、『愚管抄』によれば、宗親は頼盛に長年仕えていたそうです。
宗親の娘である牧の方は池禅尼の姪ということになります。

牧の方が時政と結婚した時期は不明ですが、治承四年(1180)の頼朝の挙兵前後とする説が多いようです。
愚管抄』に「時正(政)ワカキ妻ヲマウケテ」とあるように、時政とは親子ほどの年齢差があったと思われます。長女政子より若かった可能性も。(個人的には、宇都宮頼綱/松殿師家妻を文治元年(1187)、政範を建久元年(1189)に生んでおり、その他に娘が三人以上はいたことを考えると、牧の方の生年は平治(1159〜60)・永暦(1160〜61)頃ではないかと思います。)
ただ、牧氏が時政の長男宗時の烏帽子親と考えられることから(後述)、時政と牧氏の関係自体は挙兵の数年以上前からあったと考えられます。

京都との繋がりが深かった牧の方は時政の正室として寵愛を受け、時政との間に生まれた唯一の男子である政範は嫡男として大事に育てられました*5。しかし政範は元久元年(1204)に急逝。そして翌元久二年(1205)年閏七月、実朝を廃して平賀朝雅を将軍に擁立しようとする陰謀を企てたとして、時政と牧の方は失脚します。

時政は出家し伊豆国北条に隠棲しますが、『吾妻鏡』などの史料には牧の方が処罰された形跡はありません。『保暦間記』は「牧ノ女房ヲモ同国(伊豆)ヘ則流サルゝト聞シガ、後ハ不知」と記すため、牧の方も時政と共に伊豆で暮らしたと考えられます。

牧の方は、建保三年(1215)に時政が亡くなった後もしばらく伊豆にいたようですが、嘉禄二年(1226)十一月十一日、時政の十三年忌に備えて上洛しました(『明月記』同日条)。
その翌年、時政の十三年忌を盛大に催したり*6、娘である宇都宮頼綱の妻とその娘である藤原為家の妻(妊娠中)を連れて天王寺南都七大寺の参詣に出かけ、為家の父定家に文句を書かれたり*7と、上洛後の牧の方の動向はなかなか面白いのですが、詳しくは【女子編】で紹介したいと思います。

佐藤恒雄先生は、『明月記』寛喜元年六月十一日条に見える、藤原為家妻の費用負担で藤原国通の有栖川邸で催された四十九日の仏事が牧の方のためのものである可能性が高いことから*8、牧の方の没年月日は寛喜元年(1229)四月二十二日ではないかと指摘されています*9

 

北条時政の男子

北条宗時

?〜治承四年(1180)八月二十四日
長男。仮名(通称)は北条三郎

政子が時政20歳、義時が時政26歳の時の子なので、宗時は政子の弟もしくは年の近い兄だったと考えられます。
宗時の母は不明ですが、政子と義時の母を伊東祐親の娘と考えた場合、宗時も同母だった可能性が高そうです。

細川重男先生は、石橋山合戦における北条父子の行動から宗時が時政の嫡男であったとし、宗時の烏帽子親を「宗」を通字とする牧氏(おそらくは牧宗親)と推定されています。時政は牧氏を通して、駿河や清盛流平氏との結び付きを狙っていたようです*10

ちなみに、なぜ長男なのに仮名が「三郎」なのかは不明です。
実は兄に太郎と次郎がいたけれど早世したのかもしれないし*11、この頃の北条氏の嫡子は三郎を名乗るものだったのかもしれません。あるいは烏帽子親が関係しているのかも(なお牧宗親の仮名は三郎)。

石橋山合戦の敗北後、宗時は時政・義時とは別行動をとり、土肥山から桑原へと降り平井郷を通っていたところ、早河(未詳。比定地には諸説あり)の辺りで伊東祐親の軍勢に囲まれ、小平井の名主・紀六久重に射取られました。
享年は二十代と思われ、子供がいたという記録はありません。

吾妻鏡』によると、養和元年(1181)一月六日に、宗時を討った平井紀六久重が工藤景光によって生け捕られています。前年に頼朝が鎌倉に入った後、久重は逐電して行方が分からなくなっていたため、駿河・伊豆・相模等の武士に命じて捜させていたそうです。糾問したところ、久重は宗時を殺したことを認めました。頼朝は勝手に梟首してはいけないと命じた上で、久重を和田義盛に預けさせました。
同年四月十九日、久重は「北条三郎主(宗時)を射る罪科は軽からず」という理由で腰越浜で梟首されます。
頼朝は宗時のことを気に入っていたのかも?

また、『吾妻鏡建仁二年(1202)六月一日条によると、夢のお告げがあったとして、時政が宗時の菩提を弔うため伊豆国北条に下向しています。宗時の墳墓堂が伊豆国桑原郷(現静岡県田方郡函南町桑原)にあるからとのことです。

ところで、函南町桑原の長源寺裏山の薬師堂内には、木造阿弥陀如来及両脇侍像が安置されています。この像には、作者を示す「(大)仏師実慶」の銘文があります。実慶は運慶の弟子で、他に修禅寺の本尊大日如来像も造立しています。宗時の墳墓堂が桑原にあったという『吾妻鏡』の記述や、時政が願成就院の造像で運慶を重用したことなどから、この像は時政が宗時の供養のために造らせたのではないかという説が有力視されています*12

 

北条義時

長寛元年(1163)〜元仁元年(1224)六月十三日
次男。仮名は江間(北条)小四郎(四郎)

前田家本『平氏系図』に、義時について「次男 母伊東入道女」と書かれており、母は伊東祐親の娘と考えられています*13

細川重男先生は、義時の烏帽子親を「義」を通字とする三浦氏(おそらく三浦義明か義澄)と推定されています。伊東祐親の娘の一人は三浦義澄の妻となり、義村を生んでいるので*14北条義時三浦義村は母方の従兄弟ということになります。時政は伊東氏を通して三浦氏と繋がっており、さらに義時の烏帽子親になってもらうことで、相模の大豪族・三浦氏との協調を目指したようです*15

義時のエピソードを取り上げていると長くなるので、以下では義時の妻子について紹介します。
義時には妻が複数おり、確認できるのは次の四人です。

・阿波局
生没年未詳
長男泰時の母。『鎌倉年代記』に「阿波局」、『武家年代記』に「御所女房阿波局」、『系図纂要』に「官女阿波局」と記されています。御所(将軍)に仕える女房で、寿永二年(1183)に泰時を生んだらしいという以外、詳しいことは分かりません*16

・姫の前
?〜承元元年(1207)三月二十九日
比企朝宗の娘。頼朝お気に入りの御所女房で、「容顔太だ美麗」「権威無双の女房」でした。彼女に惚れた義時は1〜2年間消息(手紙)を送るものの相手にされず、それを見かねたらしい頼朝の仲介により建久三年(1192)九月に義時と結婚します(『吾妻鏡』同年九月二十五日条)。同五年(1194)に次男朝時*17、同九年(1198)に三男重時、生年未詳の女子(竹殿。大江親広/土御門定通妻)を生みます。
その後、比企氏の乱のためか義時と離縁し、上洛して源具親と再婚しました。姫の前は元久元年(1204)に具親との間に輔通を生み*18、京都で亡くなったようです*19

・伊佐朝政の娘
生没年未詳
四男有時の母。『関東評定衆伝』に「伊佐次郎朝政女」、『系図纂要』に「伊佐二郎朝政女」と記されています。『吾妻鏡正治二年(1200)五月二十五日条に、義時の妾が男子を平産したとあり、『関東評定衆伝』で有時が正治二年生まれだと分かることから、これが伊佐朝政の娘だと思われます。有時の仮名は弟の四郎政村・五郎実泰よりも下の六郎で、伊佐朝政の娘は側室として扱われていたようです*20

・伊賀の方
生没年未詳
伊賀朝光の娘。姫の前との離縁後に義時の正室となったようで、元久二年(1205)に五男政村、承元二年(1208)に六男実泰、生年未詳の時尚*21女子(一条実雅/唐橋通時妻)を生んでいます。ちなみに政村は「相州(義時)鍾愛の若公」(『吾妻鏡』建保元年(1213)十二月二十八日条)で、義時からとても可愛がられていたようです。

その他、生母不明の子として時経*22、女子六名(中原季時妻・西園寺実有妻・宇野則景妻・一条能基妻・佐々木信綱妻・近衛中将(姓未詳)実泰妻)が確認できます。

 


北条時房

安元元年(1175)〜仁治元年(1140)一月二十四日
三男。仮名は北条五郎

義時の12歳下の弟。

『足立系図』の足立遠元の娘の注釈に修理大夫平時房朝臣遠江守時直等母也」とあることから、母を足立遠元の娘とする説があります。
しかし、時房と時直は親子であり、『関東評定衆伝』『系図纂要』では時房の三男資時の母を遠元の娘とするため、『足立系図』の記述は修理大夫平時房朝臣遠江守時直等母也」の間違いだと思われます*23
つまり足立遠元の娘は時房の母ではなく妻と考えられ、時房の母は不明です。

文治五年(1189)四月十八日に15歳で元服し、五郎時連と名乗ります。
黄昏時に幕府の西侍で行われた元服の儀は、将軍頼朝も参加する盛大なものでした。
頼朝はその場で加冠役(烏帽子親)を佐原(三浦)義連に命じました。義連は初めは辞退しましたが、頼朝は
「この場には長老たちが多く祗候しているので、一旦辞退をするのはもっともなことだ。ただし、先年三浦へ行った時に、故上総広常と岡崎義実が喧嘩になったが、義連がこれを宥めたため無事におさまった*24。その心映えに感心したのだ。この小童は、御台所(政子)が特に可愛がっているから、将来に至るまで時連を庇護者にしようと計らい命じているのだ。」
と言って、加冠を勤めさせました。
(『吾妻鏡』同日条)

政子が時連を特に可愛がっていた(「此小童は、御臺所殊に憐愍し給ふ」)という重要情報(?)がさらっと書かれています。政子にとって、18歳も年下の時連は可愛い弟だったようです。

同年七〜九月の奥州合戦が時連の初陣となります。

時連は、建仁二年(1202)に時房と改名します。この頃、時連は将軍頼家の蹴鞠の会の常連になっていました。

建仁二年(1202)六月二十五日、御所で行われた蹴鞠の後の宴会での出来事です。平知康が時連に酒を勧めながら、酔った勢いで、
「北条五郎は、容姿といい進退といい抜群に優れていると言えますが、その実名はたいそう下劣です。時連の「連」の字は、銭貨を貫くという意味でしょうか。歌仙である紀貫之の行跡を求めているのでしょうか。いずれにしても相応しくありません。早く改名すべきであると、将軍(頼家)から直にお命じください。」
と言いました。時連は、
「全く連の字を改めましょう。」
とこれを承諾しました。
(『吾妻鏡』同日条)

またまた、時連の容姿が優れていた(「北條五郎は、容儀と云ひ進退と云ひ、抜群と謂ひつべきか」)という重要情報(?)がさらっと出てきました。
なお、政子は知康の勝手な言動や、かつて法住寺合戦の原因になったり義経に接近したりしていた知康を頼家が側に召し寄せていることに怒っています(『吾妻鏡』同年六月二十六日条)。大事な弟の名に難癖をつけられたことに立腹したのでしょうか。
しかし、当の時房は『吾妻鏡建仁二年(1202)九月十日条には「北条五郎時房」の名で登場するので、それまでに改名したと思われます。なぜ時「房」になったのかは全くの謎です。

時房の妻子についてですが、前述の通り妻は足立遠元の娘です。
子は時盛・時村・資時・朝直・時直・時定・持定・房快女子七名(長井時広/藤原実任妻・一条頼氏妻・北条朝時妻・安達義景/千葉胤時妻・一条高能妻・宇都宮泰綱妻・佐野尼。その他、注記のない娘が記載されている系図もある)が確認されています。そのうち足立遠元の娘が母だと分かるのは、時村・資時・朝直・時直・房快です*25。子の多さからして、妻は他にもいたと考えられますが未詳です。

 

北条政範

建久元年(1189)〜元久元年(1204)十一月五日
四男。仮名は北条六郎(入来院家所蔵『平氏系図』裏面)。

義時の26歳下の弟。母は牧の方。

位階は従五位下(『吾妻鏡元久元年(1204)十一月五日条)で、元久元年(1204)四月十二日に左馬権助に任じられます(『明月記』元久元年四月十三日条)。
同年三月六日、兄義時は従五位下・相模守に任じられています。しかし、義時は42歳、政範は16歳ですから、政範の方がはるかに優遇されていたことが分かります。政範が生まれてからは、彼が嫡子として扱われていたようです。

そんな政範ですが、『吾妻鏡』にはわずか4回しか名前が出てきません。『吾妻鏡』が始まってから四ヶ月で討死してしまう宗時の5回*26よりも少ないのです。
政範に関する内容は以下の通りです。

・将軍実朝の御台所として下向する坊門信清の娘を迎えるため、結城朝光・千葉常秀・畠山重保などの人々と共に上洛した。(元久元年(1204)十月十四日条)
・京都で16歳で亡くなった。(同年十一月五日条)
・政範死去を報せる飛脚が鎌倉に到着。政範は、時政が寵愛している牧の方との間にもうけた最愛の子で、道中に病を得て亡くなった。父母(時政・牧の方)の悲嘆は比べようもないほどという。(同十三日条)
・政範の従者が京都から帰ってきた。去る六日に東山の辺りに政範を葬ったという。(同二十日条)

義時・泰時の正当性を主張したい『吾妻鏡』としては、時政の嫡子だった政範の話題はなるべく出したくなかったのかもしれません。

政範の突然の死は、時政・牧の方夫妻を深く悲しませただけでなく、畠山の乱・牧氏の変という幕府を揺るがす事件へと繋がっていきます。

 


 

【男子編】は以上です。
今回は、北条時政の二人の妻と、四人の息子宗時・義時・時房・政範について紹介しました。
次回の【女子編】では、時政の11人の娘について紹介したいと思います。

出典や参考文献などはできるだけ挙げるように気を付けましたが、これを書いてる人は素人だし間違いもあるかもしれないので、あんまり信用しないでね。

簡単にまとめるつもりが長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございましたm(_ _)m


軽い気持ちで書き始めたのに8600字超え、、嘘でしょ、、、(;・∀・)

 


 

【主要参考文献】

岡田清一北条義時-これ運命の縮まるべき端か-』(ミネルヴァ書房、2019年)

佐藤恒雄「為家室頼綱女とその周辺」(『藤原為家研究』笠間書院、2008年)

杉橋隆夫「牧の方の出自と政治的位置-池禅尼と頼朝と-」(『古代・中世の政治と文化』思文閣出版、1994年)

並木真澄「中世武士社会に於ける婚姻関係-鎌倉北条氏の場合-」(『学習院史学』18、1981年)

日本史史料研究会監修・細川重男編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(吉川弘文館、2015年)

北条氏研究会編『鎌倉北条氏人名辞典』(勉誠出版、2019年)

細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)

細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』(日本史史料研究会、2007年)

細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』(講談社学術文庫、2019年)

森幸夫『北条重時』(吉川弘文館、2009年)

安田元久編『吾妻鏡人名総覧-注釈と考証-』(吉川弘文館、1998年)

山本みなみ「北条時政とその娘たち-牧の方の再評価-」(『鎌倉』115、2013年)

 

*1:細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』(講談社学術文庫、2019年)。

*2:『帝王篇年記』・前田本『平氏系図』・野津本『北条系図』・『系図纂要』。『関東開闢皇代并年代記』では「伴兼房女」。

*3:吾妻鏡』文治四年四月二十三日条に、頼朝の持仏堂で法華経講讃が行われ、これから毎月二十三日を恒例とすると定め、この日は政子の「御祖母」の命日であるという記述があるが、この祖母が父方か母方かは不明。

*4:吾妻鏡』では妹だが、池禅尼は1020〜30年代に家盛・頼盛を生んだらしいため、年齢差を考えると宗親の妹(=池禅尼の妹)とするのは無理があるように思う。

*5:吾妻鏡元久元年(1204)十一月十三日条に、政範について遠州(時政)当時の御寵物牧御方が腹の愛子也」とある。

*6:『明月記』安貞元年(1227)正月二十三日条

*7:『明月記』安貞元年(1227)正月二十七日条

*8:藤原為家の妻は牧の方の孫で、藤原国通の妻は牧の方の娘。彼女たちに共通する近々の故人として考えられるのは牧の方しかいないという。

*9:佐藤恒雄「為家室頼綱女とその周辺」(『藤原為家研究』笠間書院、2008年)。

*10:細川重男「右京兆員外大尹-北条得宗家の成立-」『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』(日本史史料研究会、2007年)、前掲『執権 北条氏と鎌倉幕府』。

*11:ただし前田家本『平氏系図』は義時を次男、『吾妻鏡』は時房を三男とする。また『増鏡』には「太郎は宗時、次郎は義時といえり」とある。

*12:神奈川県立金沢文庫『鎌倉北条氏の興亡』(2007年)。

*13:『工藤二階堂系図』の伊東祐親の注釈に「号伊東入道」とある。

*14:続群書類従』「三浦系図

*15:前掲「右京兆員外大尹-北条得宗家の成立-」、『執権 北条氏と鎌倉幕府』。

*16:加地(佐々木)信実の娘の阿波局を泰時の母とする説があるようだが(出典未確認)、信実は安元二年(1176)生まれのため、その娘が泰時を生んだというのは有り得ない。

*17:朝時の生年について、『吾妻鏡』寛元三年(1245)四月六日条・『系図纂要』・『続群書類従』「北条系図」は寛元三年(1245)に53歳で亡くなったとし、これを逆算すると建久四年(1193)生まれとなる。しかし『吾妻鏡』建永元年(1206)十月十四日条では13歳で元服、『系図纂要』では仁治三年(1242)に49歳で出家したとあり、『尊卑分脈』・『関東評定衆伝』は享年52で、逆算すると建久五年(1194)生まれである。私が調べた限りでは建久五年生まれとする本が多かったため、当記事では建久五年説を採った。

*18:『明月記』嘉禄二年(1226)十一月五日条

*19:『明月記』承元元年(1207)三月三十日条

*20:と言っても、有時誕生の際には前日から義時の大倉亭で加持が行われ、将軍頼家から馬が、政子から産着が贈られているので(『吾妻鏡正治二年(1200)五月二十五日条)、それなりに大事にされていたらしい。

*21:吾妻鏡』貞応元年(1222)十二月十二日条で、義時の「室」(おそらく伊賀の方)に男子が生まれており、私はこれを時尚だと考えている。時尚は伊賀の方を母とする(野津本『北条系図』・『桓武平氏諸流系図』)にもかかわらず、政村・実泰と違い、仮名が「七郎」と有時の下位に位置付けられている。これは時尚が生まれたときには、有時・政村・実泰が既に元服を済ませていたからではないか。また、時尚の『吾妻鏡』初見は嘉禎三年(1237)正月二日条で、同母兄よりかなり年が離れていたことを窺わせる。

*22:続群書類従』「北条系図」・『系図纂要』にのみ見える。通称「小四郎」と記されているのも不自然で、実在したか怪しい。

*23:北条氏研究会編『鎌倉北条氏人名辞典』(勉誠出版、2019年)「北条時房」「北条資時」の項

*24:吾妻鏡』養和元年(1181)六月十九日条。ちなみに喧嘩の原因は、岡崎義実が頼朝が着ていた水干を所望してこれを与えられたが、それを妬んだ上総広常が「そのような美服は広常のような者が拝領すべきである」と文句を言ったこと。

*25:時村・時直・房快は『桓武平氏諸流系図』に「母足立左衛門遠光女」(遠元の間違いか)とあり、資時・朝直は『関東評定衆伝』・『系図纂要』に「母足立左衛門尉遠元女」とある。

*26:治承四年(1180)八月二十日条、同年八月二十四日条、養和元年(1181)正月六日条、同年四月十九日条、建仁二年(1202)六月一日条