『鎌倉北条氏名鑑〈下〉』【初版】正誤一覧
※2024年1月20日更新
お世話になっております。同人サークル「山内亭」の篠目九葉です。
2023年12月9日の「イザ鎌!4」で頒布した『鎌倉北条氏名鑑〈下〉』【初版】に、以下の誤りがありました。
お詫びして訂正いたします。
◆p.7 上段【引付方】6行目
誤:数人の引付衆
正:数人の評定衆・引付衆
◆p.8 下段【御内人】1・3行目
誤:得宗家の家臣
正:得宗の家臣
◆p.10 4行目
誤:後は時宗の成長を待つだけかと思えたが、(謎の改行)
正:後は時宗の成長を待つだけかと思えたが、文永五年(一二六八)、…
◆p.44 見出し
誤:055
正:056
◆p.76 5行目
誤:弟宗頼・従兄弟の北条師時
正:弟宗方・従兄弟の北条師時
◆p.80 10行目
誤:実権を取り戻した
正:実権力を手にした
◆p.83 9行目
誤:大仏宗宣の引退後
正:大仏宣時の引退後
◆p.84 11行目
誤:北条宗頼の娘(師時の姉妹)
正:北条宗政の娘(師時の姉妹)
◆p.84 11行目
誤:大室(安達)泰宗の娘
正:大室(安達)泰景の娘
覚海円成の父の名は「泰宗」とされることが多いですが、白河集古苑所蔵白河結城家文書所収「安達氏系図」・「伝法灌頂血脈譜」から、実際には「泰景」であった可能性が高いと指摘されています*1。本書では「泰景」で統一します。
◆p.86 3行目
誤:宗方と宗頼
正:宗政と宗頼
◆p.100 2行目
誤:平頼綱政権下で、弘安十年(一二八七)に評定衆、永仁四年(一二七八)に四番引付頭人、寄合衆に任じられた。平禅門の乱後の永仁元年(一二九三)五月に越訴頭人、七月に小侍奉行、十月に新設された執奏となる。永仁四年(一二九六)四番引付頭人に・寄合衆になった。
正:平頼綱政権下で、弘安九年(一二八六)に引付衆、弘安十年(一二八七)に評定衆となる。平禅門の乱後の永仁元年(一二九三)五月に越訴頭人、七月に小侍奉行、十月に新設された執奏となる。永仁四年(一二九六)には四番引付頭人・寄合衆となった。
◆p.129 【参考文献】
誤:細川重男「秋田城介安達時顕─得宗家外戚の権威と権力─」(『鎌倉北条氏の神話と歴史』日本史史料研究会、二〇〇七年)
正:細川重男「秋田城介安達時顕─得宗外戚家の権威と権力─」(『鎌倉北条氏の神話と歴史』日本史史料研究会、二〇〇七年)
◆p.133 生没年
誤:生年未詳
正:弘安元年(一二七八)
◆p.158 2行目
誤:実明
正:実名
◆p.170 【安達氏系図】
誤:泰宗
正:泰景
◆p.172 経歴表(連署)
正:北条時村 正安3.8.23〜嘉元3.4.23
大仏宗宣 嘉元3.7.22〜応長元.10.3